熱帯夜

 熱帯夜――私は死体を抱いて眠る。
 それは冷たくかたい私のお人形。
もう動くことも、しゃべることもなく、ましてや考えることもできないからたやすく私の支配下に収まるのね。
 愛しているわ。
 大好きな人に捨てられたあなた。
 あなたは私を強く抱きしめてくれたわね。そうして涙をこぼしながら「僕はなんて弱いのだろう」と言った。嫌いじゃない、むしろ好き。
 たとえ私の存在が一時の慰めだったとしても、私は永遠にあなたを愛するわ。

1

――あなたは私を捨てられない。私がここにいるのが何よりの証拠。

 初夏、あなたは仕事を解雇された。突然のことでひどく動揺したあなたは不機嫌で物に八つ当たり。あの女――聡子にも手を挙げた。
 聡子は泣きながら子供と手をつないで出て行った。
 あなたは彼女を引き止めなかった。
 安易な思考がそうさせなかったの。
 邪魔なプライド。
 自分は決して見捨てられないと思う――幼稚さ。
 
 あの時、彼女を引き止めておけば? いいえ、今まで家庭を顧みなかったんだもの。
 彼女との関係は、とっくにお金でしかつなぎとめられないものだったのよ。
 気付くのが遅すぎたあなた。いいえ、最後まで気付かなかったのよ。

 後日届いた離婚届に、彼は判を押さなかった。まだ彼女のことを待っている。――来ないのにね。
 でも安心して、私がいる。
 私があなたを慰める。彼女の代わりに抱いて。
 
 ベッドは私とあなたとブランデー。
 コンドームは必要かしら。
 勢いにまかせての夜。
 あなたに触れたこと後悔しない。
 私に触れる、見つめる、抱き上げる、頬を寄せる。
あなたのすべてが私のもの。

2

来る、狂う夜。
あなたは私を支配する。命令する。有無を言わせず車の助手席に押し込んで。
一言も口をきかないまま、ステアリングを握り締めアクセルを全開にする。
窓から見える夜景は、ちっとも私の心に響かない。
ねぇ、それより私を見て。――私だけ。

恋愛はえこひいきの最終形態。今あなたが私を見ている、私があなたを見つめる。それがすべて。
 
 あなたがシートにもたれて慟哭する。
 涙を流すあなたを、私は抱きしめてあげることができない。せめて私にも涙が流れればいいのにね。
 翌日あなたは無表情で離婚届に判を押す。
 これで私はあなたのもの。
「聡子、さと」
 あなたは私を彼女の代わりに愛する。深く――深く。
 それでもいいわ。
 あなたが正しくものを見る力を欠いていても、狂っていても。
 気付いているかしら、いいえ気付いて欲しい。私にも心があるということを。
 最初は聡子の代わりでもよかった。でも、なぜ? あなたが彼女の名を呼ぶたびに切なく憎くなる――あなたを。
 あなたは私に話しかける。優しく。
「おはよう、よく眠れた?」
「今日の晩は、少し奮発してステーキにしよう。いい肉屋を見つけたんだ。ワインも買ってベランダで星を見ながら」
 私がこたえられずにいると、あなたは語尾を強める。
「ねぇ、どうしてこたえてくれないんだよ――聡子っ」
 私は聡子じゃない。どうしてわからないの? その名で呼ばれるたびに傷つく心があるというのに。
 今にも泣き出しそうな顔であなたを見上げると、決まってあなたは私を強く抱きしめる。
「ごめん、疲れているんだよね」
 疲れているのはあなたの方。だって白い錠剤の数は日ごとに増えている。私が知らないとでも? それがなきゃ眠れないくせに。そのくせ死ねないくせに。

3
 抱いて、頬を摺り寄せて、撫でて――堕ちる。
 
 昨夜は朝方にかけて雨が降った。日中は晴れていたけれど、明日も朝から雨だって。
 むしむしする、あなたはドアを開けて部屋に入った途端呟き、ネクタイを緩めてエアコンのスイッチを押す。
 私はあなたの背中を見つめる。
 おかえりなさい。ずっと待っていたのよ。
 あなたはスーツをソファに投げ捨て、私を抱きかかえてスラックスのままベッドに横たわる。少し酒臭い。
 ほら、私の肌はさわり心地がいいでしょう? 長い髪も艶やかで綺麗。目も大きくまつげも長い。今日はね、目の冴えるような赤のフリルのワンピを着ているの、どう?
 だけどあなたは私をまるでラッコのように抱きかかえ、抱きしめそして目を閉じる。私の頭に顔を埋めて、もしかしてあなたは泣いている?
 振り返れない。だけどあなたは震えている。仕事が早く決まってよかったわね。
 しばらくは慣れないんだもの、疲れてて当然。言葉数が少ないのも平気。でもスキンシップは増えたのよ。
 あなたは私と寝ても、錠剤が手放せなくなった。
「さと、さと」
 あなたはむせび泣く。
 私を抱く腕に力が入る。
 からからと乾いた室外機の音が窓越しに聞こえた。先月から室外機の周りで蜂が増えたみたいなの、見てもらえるかしら。けれどあなたは夢へと旅立ってしまった。
 耳を澄ませる。
 この腕から抜け出せたら確認ができるのに。
 あなたの腕は汗ばんでいた。心なしか体温も高い。
 私は、どう? ひんやりしているでしょう? 無駄毛のない艶やかな肌が自慢なの。ずっと触れて、あなたの熱さを奪ってあげる。
 エアコンと扇風機を同時に利用すれば、もっと涼しいのに。
 聡子が言った言葉を思い出す。いいじゃない、彼の好きにさせてよ。ほら、気持ちよく眠っている。
「聡子」
 夢の中まであなたは彼女を追いかける。届くはずがないのに――嫌な男。
 ぎゅっとまわされた腕に力が入る。聡子を抱きしめている夢かしら。
 けれど抱き心地は違うはず。だからあなたは目を覚まして、私を見下ろした。
 夢の中から現実へ、どうぞおかえりなさい。
 頬に優しく触れられる。
「どうして、僕を置いていったんだ」
 大きな目で見つめ返す。アイコンタクト。
「なぜなにも言ってくれないんだ、言えよ。なにか言えってば」
 あなたは命令する。だけど私は答えられない、いつもそう。困らせてばかりね。
「君がいないと寂しいんだ。飯もひとりじゃつまらない。映画も一緒に見よう。今日あった出来事を、子供の話をしたいんだ」
 あなたのいたるところから汗が流れ出していた。おかしいわね、エアコンが効いているはずなのに。
 私はあなたの支配下にあるお人形。
だけどあの女じゃないわ。
いつでもここにいる。

あなたはいつまでも無言で見つめる私にいらだって、抱き上げた。そして窓を開け、ベランダに置かれている椅子に無理やり座らせる。
むわっとした熱風が頬を撫でる。吐き気がするぐらい気持ちが悪い。
室外機は未だ回転を止めない。
あなたは私の向かい側に座る。
空のワイングラスを差し出してにっこりと笑う。
「約束だろ、いいワインを買ってきたんだ」
 そうして用意していたワインをグラスになみなみと注ぐ。たいした知識もないくせに。でも、その心遣いはうれしいわ。
 ふと耳を済ませると虫の羽音が聞こえる。しかめっ面を思わずしそうになったけれど、我慢。あなたの前では綺麗な顔でいたいの。
 目の前に差し出された赤いワイン。
 あなたは自分のグラスにワインを注ぎ、白い錠剤とともに一気に飲み干した。
「ほら、星がきれいだろ」
 ばかみたい、田舎じゃあるまいし。
 見えるのは、マンションから洩れ出る光の数々。私を騙せて?
 私の視線はあなたのかんに障ったのかしら、それともふと我に返った?
「なにか言えよ――人形のくせに」
 はだがべたつく。
 息苦しいほどの熱を含んだ空気。
 なのに背中は凍りつくよう。
 あなたの暴言は、私の思考を真っ白にさせる。
 突如あなたは立ち上がり、私の前に立ちはだかる。
 むずっとブロンドに近い髪を掴んで持ち上げた。
 痛いっ、痛い痛い痛いっ。やめて!?
 あなたが聡子に手を挙げたときのように、ドキドキする。(おかしいかしら)
 身体が震える。(やっぱりおかしいわね)
 あなたは易々と私を持ち上げる。
「人形のくせにっ」
 そういってあなたは私を投げ飛ばす。
 私は未だ回り続ける室外機にしたたか頭や身体を打ちつけた。
 あなたは目の前に立っている。
 虚ろな目で。
 見下ろす。
 あなたの大事なお人形を。
 殴りつける、蹴飛ばす。服を引き裂く、髪を引きちぎる。
 痛いと思った感覚は、錯覚。
 まったく傷みはなかった。
 あるのは、恐怖と絶望。そして悲しみ。
 あなたのシャツはびしょびしょになっていた。それでも尚、汗が次々と噴出してくる。
 あなたはわめいた。狂ったように。
 私に向かってだけれど、本当は虚しさに向かって。
 逃げていったものに対して。
 そして自分に対して。
 私は無言であなたを見つめる。だってそれしかできないもの。
 それでも私はあなたを離したくない。役に立てなくても、あなたの心の傷を完全に癒すことはできなくても。
 あなたの足元がふらつく。狭いベランダで、椅子に足を引っかける。室外機に手をついて身体を支える。
 なにかじじじっと低いうなりが聞こえる。
 あなたは私の首元を掴み、室外機に打ち付けた。
 がんがんっと鈍い音が響く。
 じじじっ、音は大きくなる。
 あなたの目は血走っている。
「あなた」
 私はようやくそれを口にした。呼べた、私はあなたに話しかけることができた。
 あなたは驚愕に目を見開き、ぽとりと私を落す。
 私を凝視し、次いで首を振る。ありえないと思っているわけ? そんな正気がのこっていたのかしら。
 あなたはあとずさる。
 あなたはよろめく。
「愛している」
 あなたは叫びにならない声を上げた。
 同時に、室外機の隙間からぶーんぶーんと警戒心をあらわに小さな豆粒がいくつも飛び出してきた。
 いえ、それは蜂。大きなスズメバチだった。
 あなたはまた驚く。
 口をぱくぱくさせて手を目の前で大きく振る。
 なにかを叫んでいたけれど、意味不明だった。
 足はふらついている、恐怖から?
 蜂は私の脇をすり抜け、一目散にあなたに向かって飛び立った。
 あなたは腕を振り回す、必死に。部屋の中に入ろうとしたけれど手遅れ。
 あなたは逃げるのに失敗し、椅子に躓き背後にあったテーブルに頭を打ち付けた。
 ワイングラスが一度はねてあなたに降りかかる。
 よけようとしてバランスを崩した。
 なにかにすがりつこうとして手を伸ばしたもの。それは私。
 あなたは私に覆いかぶさるようにして倒れこんだ。すかさず蜂が群がる。
 あなたは悲鳴すらあげない。立ち上がれない、きっと薬とお酒を同時に飲んだせいね。
 あなたの難事にそれでも私は笑う。
 大好きよ、あなた。これであなたは私のものかしら。
 あなたはすでに息が止まっていた。
 私のかわいいお人形。
 これからは私があなたをかわいがってあげる。
あなた、薬を飲んで寝苦しい夜を過ごす日々はもう終わったの。

 
 私が本当に声を出せたかって?
 ええ、人形の分際でね。
 確かに私はあの人に愛していることを伝えたかったわ。
 でもそれがちゃんと声として出ていたかはわからない。いえ、そうであってほしいと願うばかり。でも私は本当に人形なの。
 彼の飲んでいた薬のせいかもしれないわ。でも伝わったのだからよかった。
 知っている? 寄せられる思いが強ければ、どんなものにだって魂は宿るものなの。
 ――私みたいに。
 

 

 

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素材提供:Silverry moon light様 

10の夏   NOVEL

 

 

 



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